丸宮園芸の歴史
初代創業者の堀義吉が行ってきたこと~現在行っていること
丸宮園芸が生まれるまで
創業者堀義吉(祖父)は、明治44年3月15日に生まれました。
昭和8年に岐阜日本紡績工場の温室係りとして就職。
その温室にある数々の植物によって
観葉への芽生えと花を愛する精神が培われていき、
昭和10年に、ラン、おもと、カクタスの栽培と販売を始めますが、
昭和19年に海軍軍属としてラバウル飛行場(パプアニューギニア )に行くこととなります。
南方は植物の宝庫。
そこで見る珍しい植物の虜となっていったのは言うまでもありません。
戦後復興後昭和23年にいち早く再び観葉の栽培を始めます。
その頃、岐阜の繁華街に場所を借りることができ、
そこで売り出した植木がヒットします。
これが丸宮園芸の始まりで、植木販売と貸植木が次第に軌道に乗り
現在の基礎ができました。
観葉植物の黄金時代の到来
本格的に観葉植物をやりだしたのは昭和30年頃で、
瀬川弥太郎氏(元京都大学助教授)との出会いで拍車がかかり
「観葉植物」という用語もこの頃二人の間に生まれました。
日本中、世界を飛び回り多くの有用植物を収集して繁殖、
アナナス、ドラセナなど30年代の観葉の黄金時代を築きました。
またI・P・D(インドアプランツデザイン)インドアプランツ装飾技術の研究にも没頭しました。
農場の設立
当時市販されていた観葉の多くの種木は、祖父が集め手塩にかけて育てたものからわかれたものだったそうです。
新種集めの時代は過ぎたということで、30年代に貸鉢に切り替え、
昭和42年、現会社の事務所のある東改田に土地5千平方メートルを買い
農場を建設します。
温室は2千平方メートルと多種多様な植物がたくさんありました。
右写真は当時の温室内の様子が記載された新聞記事の写真です。
その後も観葉植物の先駆者として多くの取材を受けています。
クリックすると拡大表示できます。
2代目へ
祖父が死去した後、父堀清吉が2代目として後をとります。
植物を心から愛した祖父の背中をみてきた父は
高校を農業高校に進み、卒業後も家業を手伝っていました。
祖父の死去後は、拠点を山吹町から東改田へと移し、引き続き貸鉢事業を拡大していきます。
昭和56年には、「一級園芸装飾技能士」の国家資格を取り、
園芸装飾のスペシャリストとして活躍しました。
新たな時代への始まり
2代目の父は40代という若さで他界することとなり、
父が他界してからは母が引き継ぎ、事業を続けていきました。
その母も平成8年に「一級園芸装飾技能士」の資格を取り、
園芸装飾のプロとしての道を歩むことになります。
幼かった頃、働く母の背中を見つめて
家業を継ぐことへの思いが大きくなっていった。。。
そんな感じがします。
詳しくはプロフィールに記載してありますが、
農業高校の園芸科に進み
卒業後は大阪・兵庫にて修行をし
修行を終えた後、岐阜に戻り、家業を本格的に継ぐことになります。
丸宮園芸の現在
修行から戻った後は、レンタル事業と造園事業の両方をやっていきたい!
という想いがあったので、
観葉植物のレンタルと一緒に個人邸の庭作りやのお手入れの仕事等を
やらせていただいていました。
しかし、 自分が描いていたものと現実は全く違い苦労の連続でした。
そんな時、大手外食産業の会社からの造園の仕事をきっかけに
造園業も少しずつ起動に乗っていきます。
現在は祖父の志を胸に、時代の流れに沿った
観葉植物のレンタルシステムの確立に力を注いでいます。
創業者の時代から培われている緑への想いを大切に
これからも観葉植物のレンタルやお庭づくりで
たくさんの人々にやさしい緑のすばらしさを実感してもらいたい
そう願っています。